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もちもちたいむびより

日々の出来事、思う事。

思う存分自分を認める

おもうこと

最近金使いが荒い。今まで我慢してた分一気に発散しにかかってる。ほとぼりが冷めるまで財布の紐はとじないぞ!

今まで我慢していたのは金銭面的な問題でもあったけど、金銭面で我慢するとなると精神的にもかなりストレスを感じていたというのが嫌ほどわかる。だってお金があれば変えるんだもん。我慢するというストレスがなくなるんだもん。必要なものを買うのにも「これ〇〇〇円もするのか…」といつも考えていたものが何も考えなくても買えるんだもん。

 

なので今は、今まで考えて納得して買ってたけど、本当はコレが欲しかったんだよ、という妥協していた部分を全部削除していっている。去年と私の内面も変わってしまって、その時の気持ちがこもった物を身につけたくないというのもあり、嫌な思い出(無駄な物)は全部捨てたいと思う。

たまにはいいでしょ。だって今まで散々な目にあったんだから。私にはその権利があると完全に自分にGOサインを出す。

 

最近好きな人達が寄ってくる。私の変化が目に見える形で出てるなって思う。私が一緒にいたいと思う人達は、今いる人達だ。もう我慢しなくていい。思う存分自分を認めてやる。

10年後、愛されていた事を知る

おもうこと

最近自分の過去を振り返り、自分の気持ちを探す事が増えていた。あの時の私はどう思っていたのか。何をしたかったのか。どれほどの自分を殺してきたのか。自分自身に辛い思いをさせていたという事に気付いてから、自分を縛っていた紐を緩めて1つ1つ丁寧に自己承認を行っていた。「もう大丈夫。完璧じゃなくていいよ」と自分を許した。

そういう事を繰り返していると、少しだけ私の周りの時間に変化が出てきている気がした。同じ時間を過ごしてくれる人達が、私が好きだなと思える人達ばかりになった。その時に「恋をしないとダメですね」と言われて、以前に立ち読みして面白いと思っていた恋愛論の本を買う事にした。買うきっかけには充分すぎる言葉だった。

 

「愛されて当然」と思うだけで、自分史上最高の彼がやってくる。

「愛されて当然」と思うだけで、自分史上最高の彼がやってくる。

 

 

1人でランチをしながら本を読む。その中に『「大切にされた瞬間」を思い出すほど許される』という項目があったので読みながら過去を振り返っていた。

 

私のはじめての彼氏は「何であんなに我慢して何年も付き合ったのだろうか、と正直よくわからず、本当にそれは愛とか恋とかだったのだろうか、とモヤモヤする思い出しかなかった。恋愛ってもっと嬉しくなったりトキめいたりワクワクしたりするものだと思っていた。

何度も怒られたり責められたして泣いた。仕事を自分でしている人だったから中々会えなかったけど文句1つ言わなかった。何度も怒られたけど、言い返した事は一度だけ。あまりにも言ってる事が理不尽で腹が立ったので思いっきり足元をすくってやった。当然大人しくなって機嫌を取りに来て、また腹が立った。腹が立ったけど、私が言い返したら絶対に勝つのが分かったし、もう言うのはやめようとその時思った。

彼氏と別れた後、友人から「お似合いだったから、別れないでほしかったな」と言われた。ずっと色んな事を我慢していた。それが一生続くと思ったらゾッとした。思い出には辛かった事ばかりが残った。

 

自分が今、幸せだなと思いながら日々を送っているから心に余裕が出たのだろうか。本を読みながら『本当につらい事ばかりだったのか』と思った。

私の作ったしおりに本気で喜んでくれたり、私が書いた物を全部読んでどれが好きだったのかを1つづつ付箋を貼って渡してくれたり、久しぶりに会ったら二人とも顔を見て思わずニヤけたけど、二人ともそれを絶対表立って出すのはプライドが許さなかった。本気で心配されて𠮟られた。

あの頃の私にはそれが窮屈だったし、言い返すすべも知らなくて、ひたすら我慢をするしかなかったけど、あれだけ本気でぶつかってくれてた人は他にはいない。

「愛されてた…」

自然にそう思えたその瞬間、涙が出そうになって慌てて気持ちを抑えつけた。この後仕事で外出する。こんな所で揺らぐわけにはいかない。

どれだけ抱きしめられて愛してると言われて体を重ねたとしても、私の心は何一つそれに答えられなかった。

愛せなかった。相手の事も、自分の事も。

 

今まで何度も「あれは恋愛だったのだろうか」と思った。恋愛だったのだ。ちゃんとした、愛のある、恋愛だった。それに気付くのに10年かかった。私が幼すぎて自分を出し切れなかった事を悔やむわけじゃない。後悔しているわけじゃない。ただ、10年必要だったのだ。愛されていたと理解するのに。

 

願わくば、次に愛する人が出来た時に、私はちゃんと答えたい。

 

 

 

 

鮮やかな時代

おもうこと

服に色が欲しくなった。去年ぐらいはずっと白が欲しくて。その前は黒。二十歳くらいの時が一番鮮やかで、似合うとか関係なく色んな色にチャレンジしていた。

ピンク、レモンイエロー、鮮やかなオレンジ、パープル、ライムグリーン、透明のベルト…。若いから着れたようなもんだなって思うくらい、彩度は高かったと思う。

 

自分の心境の変化からか柔らかい色が欲しくなった。今までの時代に「柔らかい色」は全くなかった。そんな色は自分には不似合いだし、何より着ていて力が抜けるような気がしてどうしても肌が受け付けなかったのに、その色が今、欲しい。

色味こそ違うけど、今の私は二十歳の頃の自分に少し似ている気がする。似合わなくてもいい、自分の気持ちに素直になりたい。服は私を表現出来るツールだ。

 

苦痛な学生生活を終えて社会に出て、全くの半人前なのに「ここ(社会)が私の居場所だ!」と思ってた事は覚えてる。抑制されていたストレスが爆発して、鮮やかな花火のように色として表現された。

最近「良い歳の取り方をしてる」と言われた。二十歳くらいの時はよく友人達から「大人になった」と言われた。前の会社を辞めた後、その時にお世話になってた先輩の旦那さんに「いい意味で落ち着いたね」と言われた。

 

清算できた、という印みたいな物が少しずつ「見える化」されて私に認識されている。その服を着て目立ちたかった、誰かに私を見てほしかった鮮やかな時代。

今はふわりと包み込むかのように自分を大切にしたい。新しく抱いた今のその気持ちにチャレンジ出来れば、きっと合格。

 

欲望に忠実であること

おもうこと

友人に「1年前に、1年後にこうなると思ってなかったなんて沢山ある。だから今どれだけ考えても、1年後にどうなってるのかなんて分からない」というような事を言った。友人に言ったつもりだったけど、今それを思い出して自分に置き換えてる。1年後どうなってるかなんて、わからないのだ。

ここ半年の自分を取り巻く環境の変化と、精神的な変化は目まぐるしいものがある。自問自答を繰り返して、時間をかけて自分の土台をゆっくり積み上げ、その結果がこの半年に繋がった。

私は何が欲しかったのか、何を夢見たのか。

 

「満足したら終わりだ。欲求不満であるからこそ欲が産まれて、創造をする事が出来る」とずっと思っていた。そうやって生きてきたし、そこを通り過ぎての今だから間違いだとは思わない。けれど、満足したら思考が止まるという事はなくて、満足している今でも「もっともっと」と思い続けられている。欲求不満から始めた作り始めた土台に立ち、見たかった景色が近付いた。

 

嬉しいとか楽しいという気持ちは、自分がその出来事に対して本気で向き合えているから感じられる感情なんだと思う。嬉しくない、楽しくないという事は、その方向に向き合っているからだ。ハッピーエンドを夢見るのに、その方向からズレた方向を向いてしまう。

私は自分の欲求に本気で向き合えていなかった。『自分さえ我慢すれば丸く収まる』という自己犠牲。本当は我慢なんてしたくない。その気持ちを殺し続けることは、楽しいだろうか?嬉しいだろうか?そんな簡単な事に気付かなかった。

 

胸をえぐり取られて、取られた胸を踏みにじられた上で灰になるまで焼かれるような思いをした。私が何をしたというのだ!と心で叫んだ。何もしなかったんだ。ずっと自分に何もしてあげていなかったのだ。そんな自分を、あの日、えぐり取られたのだと今は思う。

ただ嬉しい、ただ楽しいを、素直に受け止める事を頑張ろう。私が何をしたのだ!という気持ちを抱いたまま、嬉しい、楽しいの方向に向き合うのはとても難しく、あたまでりかいしていても論理よりも感情の方が圧倒的に強い。感情が本音とは限らない。その感情は嬉しくもないし、楽しくないからだ。ひたすら辛い自問自答。ずっと続くのかと本気でそう思ってた。

 

そんな日も懐かしい。ハッピーエンドを本気で望み、願いはすぐには叶わず、数年かかった。今もハッピーエンドを望んでる途中だけど、この先は嬉しい事と、楽しい事を本気で考えられる。自分の欲望に忠実であろうと思う。

1年後も同じ事を思いながら、また違う景色が見れたらいい。この先は自分のその気持ちに全身全霊を賭けられる。

 

言葉があふれ出る時

日常

ブログと使い分けをしている訳でもないが、日記を書いている。書きたくなったら書くという自由な日記だけど、ここ一か月くらい自分で気付くぐらい書いていた。

この数年で自分をとりまく状況が変わったせいか、パラパラめくる度に自分の情緒不安定具合が激しすぎて「あ~その日その日大切に生きてるなぁ」と改めて思ったりもする。

日付を見てると、1年くらい前じゃないかと思うような事が1か月前だったりする。それ以上に昔の事だと思っても、半年もたってない…。月末になると「もう1か月終わった!」と思うのに、恐ろしく物事はゆっくり進んでいる。それが怖い。

 

今年ももう残す所あと2か月ほどだけど、恐ろしく長くて速い2か月だと思う。

歳を取ると色々落ち着いてくるものだと思ってた。違うかった。必死に時間を気にしていないと何もかもが通り過ぎる。

1秒も無駄にできないと思うのは、時間が大切だと気付けたのは、歳を取ったからなのだろうか。

神社に行って変わった事

おもうこと

運気を上げたかったら神社に行こう、というような事が色んな所で言われている。私も神社に定期的にお参りにいっている1人だ。

数年前に心身ともにボロボロになり、何かにすがらないと生きれないというレベルで「落ちて」いた。なぜか神社に行こうと思った。有名なパワースポットなんていくらでもあるのに、私は家からそう遠くない、住宅地に囲まれた地元の人しかいかないような、小さな神社に行ってみる事にした。

はじめて行く神社。境内は階段を上がった所にあった。階段を登りはじめた時に色んな気持ちが溢れて涙が出そうになった。登りきると大きくはないけど、とてもキレイで明るい神社だった。手を清めて本殿に向かい、神様に現状を伝えて「踏みとどまりたいから少しだけ力を貸してください」というような事を願ったと思う。その時、急に空が晴れて日が一気に差し込んできて、目を閉じていてもわかるほど日が差し込んだ。目を開けた時にはもう曇っていたけど、その一瞬の光だけで、単純な私は何か救われたような気がした。

それから大切な事がある日の前には決意表明で「頑張ります」、終わった後には報告で「ありがとうございました」というようなことで月に1度は神社に通ってた。

続けている内に心の傷も少しずつ癒えはじめて、ギリギリの精神状況ではあるものの、その中で最大限の努力をしていたと今でも思える。それに答えるかのように結果にも表れはじめた。

年が明けてその神社に挨拶をしに初詣に行って、景気づけにおみくじを引いた。大吉の1番だった。その1という数字が数か月後の私の転機となる瞬間に表れた。見た瞬間「これは絶対に大丈夫だ」と思った。本当に大丈夫だった。

それからも通い続けて相変わらず「頑張る」的な事を言ってお参りしている。先日年に一度だけ境内でお茶会が開かれるという事を知って、行こうと思って予定にしていたけど、友人が地元に帰ってくるという事でその日しか都合がつかず、お茶会は来年に行こうと予定変更したけれど、当日友人は風邪をこじらせて会えなくなった。本来の予定通り私はお茶会に行き、晴天の中、境内でイスに腰かけながらお茶と団子をいただいた。

 

嫉妬、執着、切望、覚悟、決断…。辛い時も、良い時も、決意も、甘えもその神社に置いている。行けばいつだってそこから何かが始まって、何かが産まれるような気持ちになる。そこに行く事で自分の中の本当の気持ちが見えてくるような場所。ご利益と関係ない願掛けをしているのにも関わらず、行けば何かしらの答えを教えてくれる。

 

パワースポットって行けば運気が上がるんじゃなくて、強い決意を持って行けば、優しく背中を押してくれる場所なんじゃないかな。

見る夢が潜在意識と関係してるなら

おもうこと

夢は潜在意識から見るものでもある、的な記事を見た。この間私の好きなライターさんが夢に出てきたけど、私はその人と同じ高みを目指しているのだろうか。だろうかというか、目指している。

いつだって私は言葉を愛して、言葉に振り回されて、それを雑に扱う人を嫌い、言葉を濁す事を許さない。

意識だけじゃどうにもならない。行動あっての意識だ。その行動も私が素直に受け止められる言葉のレールの上を走りたい。そのレールを選んだ自分だけは信じられる。

すぐに答えは出ないだろうけど、この先に待っているのは確実に私が欲しかったものでしかない。

夢を見たなら、それが潜在意識なら、私は必ずそこへ向かう事が出来る。1年たっても2年たっても同じ夢を見て、1年前より近付いている。

それが答えだ。