もちもちたいむびより

日々の出来事、思う事。

嫌われてもいいけどウザいとは思われたくない

大人になったのか冷めたのか、高飛車な態度を取る人を見てもそれほどいらつかなくなった。とりあえず「関わらないほうが吉」というふうにして全部横に流してる。

 

自分を貫き通している人は周りから「あの人はああいう人だ」と受け入れられる。本当は嫌だけど断れずに「YES」と言ってしまう人も、偽っている自分が嫌いなだけで周りには受け入れられている。受け入れられているから本当の自分をさらけだした時の反応が怖くなるだけで、本人が勇気さえ出せれば周りも分かってくれる。そこで手のひらを返してくるような人たちならこっちから願いさげすればいい。その嫌われる覚悟だけを養えばいい。

本当に嫌われる人って自己啓発の本なんて目にもくれないし、無駄に自意識過剰で無駄にプライドが高くて無駄に自己アピールが強い人たちだと思う。ビックリするような高い場所から物を言ってくるわ会話は自分が絶対最後を締めたいわで、みんなめんどくさいからさら~っと流してるのに反応があるまで話を続けたりする。空気も読んではもらえない。

たまたま連続してそういう孤高の人達の間近で会話を聞いていた。どちらの人も新人に対して漫画か!っていうくらい先輩面で、自分がいかにすぐれているかを会話の節々にエッセンスとして加える。役職者クラスの人達には分かりやすい愛想笑いとヨイショ。先輩でも年下にはお前呼ばわり。酒の席では無礼講のつもりなのか割と社歴のある人も呼び捨てにしたりする。その人が話すと空気が変わるのを肌で感じれるのに、本人は上機嫌だからどうしようもない。こんなにも分かりやすい態度だから誰もが普段、彼らにどう思われているか想像がつきやすい。

 

無礼講って信頼関係があってこそ出来る技で、信頼関係があるからちょっと砕けた事を言っても「相手に許してもらえる」ものだ。何の信頼関係もなく無礼講をする人なんて本当にただ無礼なだけ。愛想笑いも薄いヨイショも相手にも伝わる。年輪を重ねている人達にその手は通じない。それでも受け入れてくれるのは年輪を重ねて器が大きくなった人達だからだ。

 

年輪を重ねていない私はまだまだ青二才。薄いヨイショをしているのを傍観していたけど、体の健康に良くも悪くもなさそうなこの薄味の会話をしている器の大きな人を、私が勝手に不憫に思って一言だけ参戦することにした。先輩面して新人に大きく出ている孤高の人の作り上げた空間を潰す一言。孤高の人と同じ言葉をもう一度重ねただけの一言は薄味の中に投入されたトンカツで、待ってましたと言わんばかりに薄味を食べ続けていた器の人が嬉しそうに食べにきてくれた。

普段は「関わらないほうが吉」だとは思っている。でしゃばった事をしたくはないけど私も薄味でお腹一杯になりたくなかったのである。孤高の人には嫌われる覚悟はある。

 

うわべだけの付き合いが悪いわけじゃない。心を持ちつづける会話に疲れる事があるのは事実だ。だけど会話をする時の心地よさを作るには、隣に立って同じ目線になる事が大事だと思う。目上の人でも目下の人でも、私が何かを教えてもらう事には変わりないのだから。

嫌われてもいい。私は空気が読めずに会話がウザいと思われる人になりたくないのだ。